母の退院後、家にいるのがつらくなった日。

母がくも膜下出血で倒れ、入院。そして退院。
命が助かったことは、本当にありがたいことだと思っている。
けれど、その感謝の気持ちとは別に——いや、むしろその「感謝」を抱えたまま、僕は次第に“つらさ”を感じるようになった。

退院後の生活が始まって、家に母がいる。
日常に戻ったはずなのに、僕の中ではどこかが“非日常”のままだった。

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母が「いてくれて嬉しい」けど、「常にそばにいる」のは違った

最初は何かと気を遣っていた。
「お茶いる?」
「疲れてない?」
「今日は何するの?」

——でも、それは僕の方だった。

15時になると、母が毎日お茶を淹れてくれる。
ありがたい。でも、パソコン作業に集中している時に声をかけられると、ふと、思ってしまった。

“ああ…また今日もこの時間か。”

罪悪感。
自分でも「何を思ってるんだ」と突っ込みたくなる。
それでも、生活リズムをコントロールされているような窮屈さが、じわじわと染みてくる。

「甘えてるな」と思う母、「見張られてる」と感じる僕

玄関を出るとき、毎回見送りに出てくる母。
僕はもう47歳。ひとりで出かけるくらい、何も心配いらない。
でも母にとっては「当たり前のやさしさ」だったのだと思う。

なのに、僕は「またか…」と思ってしまう。
過干渉に感じるし、そもそも「ここにずっといられる」と思われてる気がして、苦しくなる。

退院は「終わり」じゃなかった。僕にとっての“始まり”だった

周囲は「よかったね」「助かって本当によかった」と声をかけてくれた。
もちろん、それに嘘はない。

でも僕にとっての試練は、むしろそこからだった。

ひとりになれない。
自由に外に出られない。
時間を気にしながら生活する。

どれも“介護”という言葉ではまだ表現しきれない、グレーなストレスだった。

「逃げたい」のではなく、「自分を取り戻したい」だけ

家にいるのがつらくなって、外に出る理由を探すようになった。
東京にいる恋人に会いたい。週に1回くらいは外泊したい。
そう思うことは「親不孝」なんだろうか?

でも僕は、ただ「自分の人生を生きたい」と思っただけだった。

親を大切にする気持ちはある。
けれど、自分をすり減らしてまで“良い息子”でいる必要はあるのか。
そんな自問を、繰り返す日々。

——あなたは、どうしてますか?

介護とまでは言わない。
でも親と一緒に暮らすことになって、どこかで「苦しさ」や「息苦しさ」を感じている人は、少なくないんじゃないかと思う。

このブログでは、そんな葛藤や、どう付き合ってきたかを記録していこうと思います。

もしよかったら、あなたの話も聞かせてください。

感謝とストレスのあいだで揺れながら、それでも前に進もうとしている人へ。
今日も、一緒に呼吸を整えていきましょう。

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