はじめに
「しばらくゆっくりしよう」
そう思っていたはずだった。実際、自由だった。目覚ましも鳴らないし、嫌な人間関係もない。自分のペースで起きて、自分のタイミングでごはんを食べて、やりたいことをすればいい。
でも、そんな暮らしが3週間続いたある朝、不意に焦りのようなものがこみ上げてきた。
「このまま時間だけが過ぎていくのではないか」と、妙に怖くなった。
忙しいときほど“自由”に憧れていた
東京で働いていたころ、毎日が予定で埋まっていた。
LINEもメールも鳴りやまず、電車の乗り換え、締め切り、シフト、打ち合わせ。1日が終わるころには、体も頭も空っぽだった。
だからこそ、「何もしない時間」にずっと憧れていた。
——けれど、実際にその時間を手に入れてみると、驚くほど不安になった。
何も予定のない日。
何も決まっていない週。
自分で埋めなければ、真っ白なまま過ぎていく1カ月。
誰も責めていないのに、自分が自分を責めていた
何を焦っているのか、最初は自分でもよくわからなかった。
でも、SNSで働いている人の投稿を見たり、兄弟が「今日も仕事だよ」と連絡してくるたびに、心のどこかがざわついた。
「何してるの?」と聞かれたら、正直に答えられない。
「少し休んでるだけ」と言い訳する自分がいる。
結局、誰も僕を責めていない。
でも、自分が“働いていない自分”をどこかで許せていなかった。
本当に欲しかったのは「時間」じゃなかったのかもしれない
自由な時間が欲しかったはずなのに、その時間を前にして戸惑っていた。
お金? 社会的な立場? 予定表?
それらがあることで、“自分が何者かである”という感覚を持っていたことに、ようやく気づいた。
自由とは、何もしなくても幸せでいられることじゃない。
自分で選んで、自分で動いて、自分で納得している状態。
僕はまだ、「選んで動く」ことを始めていなかっただけだった。
締め:止まっているように見える今も、実は動いている
あの朝、僕は布団の中で1時間くらいぼーっとしていた。
「このまま何もしないのは怖い」
でも、「だから何かを始めよう」と思えたことが、たぶん最初の一歩だった。
何をすればいいか、明確な答えなんてない。
でも、“何かしたい”という気持ちがある限り、人生はちゃんと前に進んでる。
焦る日もあっていい。
立ち止まる日も、何もしない日も。
それすら、僕の“今の歩み”なんだと思う。
もしあなたも今、同じような時間の中にいるなら。
「大丈夫、ゆっくりでいい」
そう声をかけたい。